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つまり、「これはどうでもいい」「この言説はクソだな」みたいなかんじに思ったなら、決してその感想そのものをネットに再放流してはいけない。「どうでもいい、とわざわざ主張するからには、そこにはどうでもよくない何かがあるのかもしれない」「強烈に否定したくなるほど、逆方向に魅力的な言説なのかもしれない」みたいな勘繰りが勘繰りを呼び、ムーヴメントを大きくしていく。
アートに関心のある人に向けてつくられたアートが多すぎるのです。

文化じゃなくて「ジャンク」だと思う。
もちろん良い意味で。

HTML 文書 (via takaakik)

あー、ホントにそうだ。

(via mitaimon)

泰:日本のハイ・アート全般に言えることかも。コミュニティーにどっぷり依存していること(作品をjargonで構成すること)がすなわち最高の作品だと思いがちな気がする。クリエーターだけじゃなくて、鑑賞者や関係者も。例えば映画界なんかだと、青山真治にしても塩田明彦にしても犬童一心にしても、お金儲け映画とアーティスティックな映画を分けて作ることによって、自分の牙城を守っている感がある。むしろ良い物はあまり大衆に見せたくないみたいな。配役を見ればこりゃ一目瞭然。一方、コーエン兄弟やタランティーノやデヴィット・リンチなんか見てると、彼等はアーティスティックな自分の最高傑作を沢山の人に受け入れてもらうという、そんなウルトラCを常に目指しているように見える。日本人は哲学や批評の捉え方なんかを見ても難しい言葉を使わないとダメだと思っている人が多いし。マニアックなものじゃないと良くないと思ってたり…。悲しきかな、それはそれら輸入文化をどうしても等身大で受け入れられなかった時代の名残なのだろう。哲学書を原文で読んだり、世界的なアートが生まれる現場で生活して、それらがいかに現場の生活に密着しているかを体感したら、隔たり=アートの誤解を解くことが出来るだろうけど。(でも平易とはまた違う話)
一方、アキバ文化なんか見てると等身大だなあと思う。きっちり文化に対してイニシアチブをとってる。アキバ文化がこれほどまでに受け入れられている一番の理由は翻訳文化におけるあの特有の隔たりがないからなんだろう。日本のアニメを見ている東南アジアやヨーロッパの子供は、アニメに出てくる畳やフスマやおでんやラーメンや日本特有の風物詩ややり取りなんかを見てどう育って行くのだろう。
自分の場合、長い間半分日本人半分アメリカ人みたいな人生送って来たので、等身大の、リアリティーを持って作った作品がきちんとしたインタラクションの元に評価されるのはなかなか難しいだろう…。まあ、だからネオ・コスモポリタニズム(←ググったら0件だった!)みたいな発想になって行くのだが。そしてインターネットに期待するのもそんな理由からか。ある種のユダヤ人。前に、Googleの創始者の二人ともがユダヤ系って知って心から納得がいった。依存できる故郷がないというノマド的感覚は作り手にとっては最高の環境になり得るんだと自分を慰める。アキバ文化は自国文化にどっぷり浸かる鎖国環境。こう見ると日本文化とユダヤ文化は正反対だなあ。 (via tessar) (via aokie) (via nemoi) (via kml) (via ipodstyle) (via qyen) (via plus16hours) (via carandache) (via dannnao) (via udonchan) (via kuriz) (via ontheroad) (via tuvuan) (via jinon)

(via planetape)

(via califra) (via rollstone) (via nagas) (via kondot)

(via kirisaki)

ビジネス書コーナーには自己啓発本が溢れかえっています。いわく、「ポジティブ・シンキングを続けていると、必ず仕事がうまくいく」「プラス思考で逆境を乗り越えよう」等々。教育やダイエット、あるいは婚活に至るまで、自己啓発は大流行(はや)り。でも、それってどこか胡散(うさん)臭くない? そんな疑問を科学的に検証したのがこの作品。自己啓発メソッドの実践者と非実践者を追跡調査した数々の大規模実験から、驚くべき結果を読者に提示します。自己啓発大好きのカツマーは脳天を直撃されること請け合いです。
「グーグル以前」の世界標準でデジタル・コンテンツについて考えてももうほとんど意味がない。
どうすればいいのかと凄まれても困るが、「すでにグーグルが存在する世界」に生きている以上、「グーグルを勘定に入れて」暮らすしかない。
私は10年前から「ネット上に公開した情報は公共物」という方針を貫いている。
コピーフリー、盗用フリーである。
繰り返し言うように、私がネット上に公開したテクストはどなたがどのような仕方で使われてもご自由である。
私の書いたことをそのまま「自分の書いたもの」だと主張して、単行本にされても構わない。
私は「私のような考え方をする人」を一人でも増やしたくて、ネットを利用しているわけであるから、私の意見を「まるで自分の意見のようである」と思ってくれる人がいることは歓迎しこそすれ、非難するいわれはない。
私が書いていないことを「ウチダタツル」という名前で勝手に発表されるのは困るが、私が書いていることを別人の名前で発表することについては「どうぞご自由に」である。
ほんとに。
appbank:

hsmt:

ssbt:

thresholdnote:

Twitpic - Share photos on Twitter

興味深かったのは、phaさんが「プログラミングを知ったことで、自分に適した表現方法に出会った」というように話されたことです。

実はその数日前に他の人と飲んでいた時に「紙に書いた提案書とか、もう意味がないよね。プログラム作って画面上で動かして“こういう感じのビジネスをやりましょう”って言われたらすぐ済む話なのに」と言う人がいて、その時は「そうか、プログラムってパワポに取って代わるんだ」と思いました。

つまり、「プログラム=プレゼンツール」として使われてるんだなって思ったんです。でも、さらに一歩進めて“表現方法”なんだと、この日は(ようやく)理解できました。

“自分の表現法”と出会う - Chikirinの日記 (via kmagami) 主旨とはずれるかもしれないが重要な要素として、すごい達人に限るぞ。 (via toukubo) (via yuco)
kirisaki:

yorozuna:

biggarden:

紅茶なう on Twitpic
今日、某氏と話していたのでついでに日記にも書いておこう。

僕が尊敬するの大人の人達。

* ××しろと言わない
* ××するなと言わない
* 自分の価値観を表明することはあっても決して共感を強要しない
* フレンドリーである
* 謙虚である


逆に

* 陰口を言う
* ××しろと言う
* ××するなと言う
* 自分の価値観への共感を他人に強要し、相容れないと不機嫌になる
* 自分の価値観と合わないものは完全否定する
* 自分が他人より優れていると言いたがる
* 他人を貶すことで自分の立場・地位を保つ

などは尊敬できない。

やっぱり価値観への共感を強要する人が一番タチが悪い。

と言っても、これは僕の価値観なので特に強要はしませんよ。
suyhnc:

bluescotch:

vladimirnabokov:

iampirate:theclotheshorse:Now that is a coat.
suyhnc:

myoctoberrevolution:

(via iambitta)